深津英臣が代表落ちしたのはなぜ?7年ぶり復帰でロス五輪切符!

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2026年、約7年ぶりにバレーボール男子日本A代表のコートへ戻ってきた深津英臣(ふかつ・ひでおみ)選手。

36歳のベテランセッターとしてネーションズリーグで日本の快進撃を支え、9月のアジア選手権ではロサンゼルス五輪出場権の獲得に貢献しました。

かつて日本代表のキャプテンまで務めた深津選手は、なぜ代表から外れたのでしょうか。また、長い期間を経てA代表へ復帰できた背景には、どのような努力があったのでしょう。

この記事では、当時のセッター争いや本人の発言をもとに、代表落ちの背景から36歳での復帰までをまとめます。

深津英臣が代表落ちしたのはなぜ?

深津英臣選手が日本代表から外れた理由について、日本バレーボール協会や当時の監督が、一つの理由に絞って公式発表した事実は確認できませんでした。

ただ、当時の記事や本人の発言をたどると、日本代表が目指していた戦い方との相性に加え、藤井直伸選手・関田誠大選手との厳しいセッター争いが背景にあったことが見えてきます。

深津選手は2013年に日本代表へ初選出され、2015年には正セッターの座をつかみました。2016年のリオデジャネイロ五輪世界最終予選にも正セッターとして臨み、翌2017年には代表キャプテンを務めています。

しかし、2018年の世界選手権メンバーからは落選しました。その後、2019年のネーションズリーグまでA代表でプレーしたものの、以降はA代表の試合から長く遠ざかることになります。

ここで押さえておきたいのは、「代表落ち」とは処分や引退を意味するものではなく、大会へ出場する代表メンバーに選ばれなかったということです。

藤井直伸・関田誠大とのセッター争い

当時のセッター争いには、それぞれのプレースタイルの違いが大きく関わっていました。

Number Webの記事によると、深津選手はサーブレシーブが返った状態からコンビ攻撃を展開することを得意としていました。

一方、藤井直伸選手はパスが崩れた場面でもミドルやバックアタックを積極的に絡めるトス回しを得意としており、そのスタイルが当時の日本代表の目指す戦い方に合っていたとされています。

さらに、関田誠大選手も高い技術を持つセッターとして代表に定着。東京五輪とパリ五輪では、主力セッターとしてコートに立ちました。

単純に「藤井選手や関田選手の方が上だった」という話ではありません。それぞれに得意なプレーがあり、当時の代表が求めた戦術との相性が異なっていたというのが、実情に近そうです。

深津英臣自身も技術差を認めていた

深津選手は、この状況を他人のせいにはしませんでした。

Number Webのインタビューでは、藤井選手や関田選手が崩れたボールからでも思いがけない場所へトスを上げる姿を見て、自分には同じプレーができないと感じた趣旨を語っています。

所属チームで国内三冠を達成しても、世界の舞台で求められる力はまた別だと受け止め、代表から外れたことにも納得していたそうです。

しかし、そこで諦めたわけではありません。深津選手は、もう一度代表へはい上がるという強い気持ちを持ち、さらに技術を高めようと取り組み始めました。

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深津英臣はA代表から遠ざかった時期に技術を磨き続けた

深津選手にとって、2016年のリオ五輪世界最終予選は大きな転機になりました。

正セッターとして臨んだものの、大会の重圧によって自分のプレーができなかったと振り返っています。日本は2勝5敗の7位に終わり、五輪出場権を獲得できませんでした。

この経験を通して深津選手が痛感したのは、どれほど気持ちが強くても、世界で戦うにはそれを支える技術が必要だということでした。

そこから国内外、男女を問わず優れたセッターの映像を集め、研究を重ねます。五輪3大会に出場した元女子日本代表の竹下佳江さんからは、体の向きやボールを迎える姿勢を学んだといいます。

特にこだわったのが「足の使い方」でした。足のステップと、足からボールへ力を伝える体の連動性を追求し、自分に不足していた技術を一つずつ磨いていきました。

A代表の試合から遠ざかっていた時期は、何もしていなかった空白期間ではありません。自分の弱点と正面から向き合い、セッターとしての技術を作り直していた時間だったのです。

深津英臣はなぜ7年ぶりにA代表へ復帰できた?

深津選手は2024年、11シーズン在籍したパナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)を離れ、地元・愛知県のウルフドッグス名古屋へ移籍しました。

新天地でも巧みなトスワークで攻撃陣を操り、2024-25シーズンのSVリーグでは、レギュラーシーズンベスト6のセッター部門を受賞しています。

2025年には、4年ぶりに日本代表登録メンバーへ復帰し、B代表の国際親善試合に出場。そして2026年、約7年ぶりにA代表の試合へ復帰を果たしました。

ここで注意したいのは、2025年の「4年ぶりの日本代表登録」と、2026年の「約7年ぶりのA代表復帰」は意味が異なることです。

ネーションズリーグ2026では予選ラウンド12試合すべてに先発し、日本の12戦全勝を支えました。予選終了時点のベストセッターランキングでは7位に入っています。

ロラン・ティリ監督は、パナソニックパンサーズ時代に4シーズン一緒に戦った深津選手のことをよく知る指揮官です。

Olympics.comのインタビューでは、深津選手自身が、監督は自分のよい部分も悪い部分もすべて知っているという趣旨を語っていました。波のある試合展開を安定させてほしいという監督の期待に応えようとしている様子もうかがえます。

A代表へ復帰できた理由が、公式に一つへ絞って説明されているわけではありません。

ただ、A代表の第一線から遠ざかっていた時期に磨いたトス技術、SVリーグで残した実績、豊富な代表経験、チーム最年長でありながら練習へ貪欲に取り組む姿勢、そしてスパイカーを生かす安定したトスワーク。こうした要素の積み重ねが、36歳でのA代表復帰につながったと考えられます。

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深津英臣が36歳でロス五輪切符獲得に貢献!

2026年9月13日、福岡県北九州市でアジア男子バレーボール選手権の決勝が行われました。

日本はイランに3対0(25-21、26-24、25-23)で勝利。大会6戦全勝で2大会連続11度目の優勝を果たし、2028年ロサンゼルス五輪の出場権を獲得しました。

深津選手は、決勝に先発セッターとして出場しています。

第3セット、日本が24-23とマッチポイントを迎えた場面で、深津選手がトスを上げたのはキャプテンの石川祐希選手でした。

1本目のスパイクは相手のブロックに阻まれましたが、リベロの山本智大選手がボールを拾い、再び深津選手のもとへ。深津選手がもう一度石川選手へトスを上げると、スパイクがブロックアウトとなり、優勝が決まりました。

試合後、深津選手は、石川選手がチームを引っ張ってきたからこそ、最後も信じてトスを上げることができたという趣旨を語っています。

最後の最後にキャプテンへボールを託す。その選択には、長い経験の中で培われた信頼と判断がにじんでいました。

わたくしはこの最後のやり取りを知ったとき、セッターという仕事の奥深さを改めて感じました。誰にボールを託すのか。その一瞬の選択に、チームが積み重ねてきた時間まで詰まっているのですね。

深津英臣はオリンピックに出たことがある?

深津選手は2026年9月現在、オリンピック本大会への出場経験がありません。

2016年のリオ五輪は世界最終予選で出場権を逃し、東京五輪とパリ五輪では代表メンバーに選ばれませんでした。

Olympics.comのインタビューでも、五輪は行きたい夢の舞台であると同時に、手が届く可能性がありながら逃してしまった悔しさの残る場所だという思いを明かしています。

今回のアジア選手権で獲得したのは、あくまで日本代表チームのロス五輪出場権です。2028年大会に出場する選手は、まだ決まっていません。

ロス五輪が開催されるとき、深津選手は38歳。代表メンバーに選ばれれば、自身初のオリンピック出場となります。

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深津英臣のプロフィール

項目内容
名前深津英臣(ふかつ・ひでおみ)
生年月日1990年6月1日
年齢36歳(2026年9月現在)
出身地愛知県
身長181cm
体重77kg
ポジションセッター
所属ウルフドッグス名古屋
出身校星城高校→東海大学
ニックネームオミ

まとめ

深津英臣選手が日本代表から外れた理由は、公式に一つへ特定されているわけではありません。

当時の代表が目指していた戦術との相性や、藤井直伸選手・関田誠大選手との厳しいセッター争いが背景にあり、深津選手自身も両選手との技術差を率直に認めていました。

それでも諦めず、気持ちだけに頼っていた自分を変えるため、映像研究や足の使い方の改善など、セッターとしての技術を地道に磨き続けます。

ウルフドッグス名古屋への移籍後はSVリーグで結果を残し、36歳で約7年ぶりにA代表へ復帰。ネーションズリーグでは予選ラウンド全12試合に先発し、2026年アジア選手権の決勝でも、先発セッターとしてロス五輪出場権の獲得に貢献しました。

2028年の代表入りが決まったわけではありませんが、選出されれば自身初のオリンピックとなります。

年齢だけで限界を決めず、技術も心も進化させ続けてきた深津選手。38歳でロス五輪のコートに立つ姿を、楽しみに待ちたいと思います。

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